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 おたあジュリア

 
【前浜にたたずむジュリア】
2013年2月14日 著 中村

 以前、神津島は罪を犯した者の流刑地であった。

 罪といっても殺人や強盗などの悪質なものでなく、政治犯や思想犯など政府(幕府)の方針に逆らっていた者などが送らて来ている。 現在でこそ、大型客船や飛行機など色々な手段で本土と島が行き来が出来るようになっているが、当時、この孤島に住む者にとって海の外へ出るのは簡単なものでなかったのは言うまでもない。

 流刑になってしまったジュリアとその歴史的背景とは・・・。


 そもそも、おたあジュリアとは?

 おたあジュリアは朝鮮半島の出身であり、豊臣秀吉の時代の朝鮮出兵、文禄の役の際に、
 平壌近郊で捕まり、日本まで連行されてきたという。

  朝鮮出兵の戦いの混乱の中、
 自害した朝鮮人の娘やら捕虜となった李氏朝鮮の両班の娘とも言われるが、
 生まれや実名、家系などの事実はわかっていない。

 日本ではキリシタン大名、小西行長に身柄が引き渡され、小西夫妻のもとで育てられることになった。


日本での生活

  小西家の拠点は現在の熊本県宇土のあたりであり、キリスト信者の多い地域であった。

 小西家のもとで育てられたジュリアは、ここでキリスト教を学び信仰し、
 さらには小西家の元々の家業であった薬草についての知識を身に付けたと言われている。

 このときに洗礼を受け、洗礼名を「ジュリア」とした。

  関が原の戦いで西軍側に付き敗れた小西家は次第に廃絶していくことになるのだが、
 おたあジュリアは徳川家康に目をつけられ、駿河城で家康側近の侍女として仕えることになった。



 キリスト教の禁止

  駿河城で侍女として仕えたおたあジュリアであるが、
 仕事をこなした後には、祈祷や聖書を読んだりと熱心な信仰は続けており、
 周りの人をキリスト教に導いていったという。

  しかし、キリスト教の拡大に脅えた幕府は、慶長17年(1612年)に禁教令を布き、キリスト教を禁止した。
 だが、家康はおたあジュリアを近くに置いていたかったので、あたあジュリアが改宗する事願っていた。
 
  熱心な信者だったおたあジュリアは様々な説得でも改宗を拒み続け、
 家康の思惑通りには行かず、ついに流刑へとなってしまう。


 流刑となるおたあジュリア

 1612年 慶長17年3月21日  禁教令 発布

 同 3月26日  おたあジュリア 網代より伊豆大島へ流刑(大島には30日ほど滞在とされている)
 同 4月24日(推定) おたあジュリア 伊豆大島より新島へ移転(新島には15日ほど滞在とされている)
 同 5月9日(推定) おたあじゅりあ 新島より神津島へ移転



 禁教令は発布されてすぐに、おたあジュリアは流刑となる。

 駿河の国からは駕籠に乗せられて網代まで移動となるのだが、その道中おたあジュリアは、でこぼこな道を見て、公徳を積む良い機会であると見逃さず、駕籠から降り、なんと裸足でその道を歩いたという。

それは、イエズス・キリストが肩に十字架を担ってカルワリオ山に行かれたとき、駕籠に乗っておらず靴もはかれず、かえって裸足で歩きながらたくさんの血を流された。という、主のはしためとして自分もその道行にならいたいとの思いであった。

 おたあジュリアは、幼い頃から侍女として育てられ体質も非常にデリケートであり、一方きわめて荒々しい道であったので、おたあジュリアの足からもたくさんの血が流れ、たくさんの努力だけでかろうじてついて行けるほどであった。

 そうして、網代に到着し、船に乗り込み本土を離れ、伊豆大島へ流されていった。

 しかし、公方はそれをまだ近すぎすとして、30日ほどの滞在でさらに遠くの新島へ移動させた。新島ではジュリアによく知られている宮廷から追放された他の婦人達もいたので、少しは楽になり、色々と便宜が図られた。

 だが、新島滞在15日ほどで更に遠くの神津島へ移動となることになり、孤島の神津島へと流された。

 その時の神津島は、貧しく哀れな漁師のごく小さなわらぶき小屋が9軒か10軒くらいしかなく、天下の主が食物か何かしらの扶助を与えない限り、人間の生活に必要なものがまったく欠けていた。そんなところであった。



 神津島での生活、その後

  神津島では島民にキリスト教を布教したり、学問を問いたりと、よい影響を与えて生涯を神津島で閉じた。 と、言い伝えられていますが真相のところはわかっていません。

 島民は閉鎖的な空間に来た美しい女性を忌み恐れ殺してしまっただとか、1617年には宣教師の協力で本土に戻り、大阪や長崎で暮らしていだとか、色々な説があります。

 神津島に残るおたあジュリア足跡
 
  神津島村では、1970年(昭和45年)5月25日に第1回ジュリア祭を開催し、ジュリアの公徳をしのんでいます。 祭りが始まったきっかけとしては、明治時代頃には禁教令もあり忌み嫌われたいたキリスト教であるが禁教令が解かれ、北原白秋らの「パンの会」の運動により、大正時代にはキリシタンの殉教がロマンとして、 捉えられていったのである。文明開化、異国情調が盛り上がり、おたあジュリアに光が向けられた。キリスト教研究の世界で名が広まっていった、おたあジュリアであり、どのような人生を送ったのか、お墓は何処なのかと、しばしば論議されていくことになった。

 しかし、資料は少なかったため真相はわからないままであった。

 そのうち、ただ漠然と、おたあジュリアは神津島で死んだことを聞いた伊豆大島の信者たちが、その死を悼み、ひそかに神津島から遺骨を持ち出して、ジュリアニとっては懐かしい伊豆大島の波浮港の海辺に埋葬し、霊を慰めたに違いないという、話しで落ち着いていた。大島のオタイ浜、御躰根明神(おたいねみょうじん)に結び付けようとする推論であった。

  ※大島のオタイ浜、御躰根明神も、ジュリアの墓ではないかと騒がれたことがあたt。

 神津島でおたあジュリアが騒がれはじめたのは、戦後であり、山下彦一郎が流人墓地にある二重方塔をジュリアの墓で間違いないと言い出したことにより、神津島でおたあジュリアに注目が高まっていった。

 そうして、キリシタンの殉教がロマンとされていた時代から、おあたジュリアが盛り上がり、ジュリア祭開催へと繋がっていき、2014年に第45回ジュリア祭を開催にあたっている。


 
 【流人墓地にあるジュリアの墓であると言われる二重方塔】


 
 【流人墓地に不受不施派の墓が並ぶ】


 
  【こんぴ(保育園横の広場、森)に建てられた、おたあジュリア顕彰碑】

 
  【ありま展望台にあるジュリアの十字架】

 
  【カシオペアとジュリアの十字架】

 
  【開発総合センターにあるジュリア人形】