TOP >> 文化歴史 >> 浄土宗延命山 濤響寺 (じょうどしゅうえんめいざん とうこうじ)
 浄土宗延命山 濤響寺




 島のご先祖様が眠る墓がある。

 墓地内は白砂で敷き詰められ、島の人はほぼ毎日墓参りを行う。
先祖を大切にする教えから、墓は供えられた花で溢れて彩り豊かです。


 村内散策で、訪れてみてはいかがですか?


(参道の門、参道が道路で寸断されている)



掲示板の貼り出しによると。

 私たちの宗旨 
 名称 浄土宗  
じょうどしゅう
 宗祖  法然上人(源空) 一一三三 〜 一二一二
ほうねんしょうにん(げんくう)
 開宗  今から八百三十年程前、承安五年(一一七五)
               じょうあん
 本尊  阿弥陀仏(阿弥陀如来)
あみだぶつ(あみだにょらい)
 教え 阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ「南無阿弥陀仏」とみ名を称えて、
人格を高め、社会のために尽くし、明るい安らかな毎日を送り、
お浄土に生れることを願う信仰です。 
 お経 お釈迦さまがお説きになった「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の
三部経をよりどころとします。
寺院 延命山 濤響寺 



本堂近くの案内板。

    


浄土宗 延命山濤響寺沿革

一、当時の開基は寛永一六年(一六三九)天蓮社秀誉休山和尚を開山として伊豆下田浄土宗海善寺の別院として創建され、住僧は明治七年第二十六世の派遣まで代々同寺を介して招致派遣されていた。
 
当時の人口は寡少で村の中央部に僅かの人家が点在し製塩や農漁を営んでいたという。

当時の寺は口碑によれば現在の小学校の下(矢割という)あたりに建立されていたので山号を矢割山と称したと伝えられている。

其の後延享年間の大火(ポチ火事という)で役所・寺院・神管居宅・民家及び諸記録等悉く廃燼帰したという。

次いで延享四年(一七四七)第九世體誉専栄和尚の代ささやかな堂宇が再建されたのである。


二、現在地に移動したのは不明なれど、現在の本堂は文化元年(一八〇四)に起工し同三年八月十五日上棟、十月十三日入佛慶賛法要を行い翌四年秋一切の完成を見たのである。

寛政八年(一七九六)伊豆諸島代官三河口太志の伊豆諸島巡見の際の従者太田彦助の手記「廻島雑話」によれば神津島の戸数一九〇軒、男四一六人・女五五三人・計九六九人とあり、文化元年より八年前の統計である。

文化・文政の時代は全国的に好景気と伝えられるも本島の如き微弱な村財政と過疎な人口で斯くの如き宏壮な建造物(間口十二米、奥行十三米、一七三・五五五平方米)を造営された願意は何であったのか。

起工から完成まで三ヶ年村民は老若男女揃い装束をまとい、交代で労役に服し文字通り挙島一致しての悲願の造営であった。


三、本村佛は阿弥陀如来でこの佛像は本村の篤信者前田家某母(十五夜婆という)元禄元年一月十四日の夜の霊夢により多幸湾の海浜に漂着せる三躰仏の一つを秦安せるものにして作者・年代等は不詳である。

四、山号延命山の雄渾なる筆致の扁額は「左近少将源定信(松平定信・八代将軍吉宗の孫、白河藩主・名君として知られ十一代将軍家斉の老中として寛政の改革を行う)の書にして第十八代国誉上人の代文政二年(一八一九)四月三日、願主江戸島屋八右衛門親類中で寄進されたものである。
 濤 響 寺 山 主 記



さらには、村重宝としての説明板。

    

村重宝(建造物)濤響寺本堂 一棟
(桁行七間、梁間六間、一重宝形造、向拝二間)
 所在 神津島村八九九番地
指定 昭和四五年一月十日

 濤響寺は、寛永一六年(一六三九)の開創で現在の本堂は文化元年(一八〇四)起工、同三年八月十五日上棟、十月十三日入佛慶賛が行われた。堂は桁行七間、梁間六間、向拝二間付きの規模をもち、屋根は、宝形造りで建立当時は、草葺であったが、明治四十四年(一九一一) 瓦葺に改造して、現在はトタン葺に変わった。

 内部は内陣と外陣とになり内陣の正面は左右の組物の上に精巧な竜の上半身の彫刻を配置し、内外陣の三方は、組物の中備蟇股(なかぞえかえるまた)には精巧な花・鳥・人・獣の彫刻をはめこみ色彩もあざやかである。

建物全体は簡素であるが、組物、彫刻は高度の技術を駆使したもので、勝れた技術が秘められており、村の文化財として貴重である。
昭和四十五年八月十五日建設
神津島村教育委員会