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 こんぴら様


  信号から徒歩3分くらい。神津島村役場、はまゆう保育園のあたりにちょっとした雑木林がある。
 島の人はこの辺りのことを、「こんぴ」と呼ぶ。それは、ここに「こんぴら様」が祀られているからだろう。
 
 案内板によると、

”『こんぴら様』

拝殿に天狗の面の額が掲げられ、奥の祠には琴平宮が祀られている。

漁業者の信仰が厚く、漁期に入る前には豊漁を祈願し願かけを行い、漁期が終了するとお礼詣をする。大漁があると、手桶に入れてわざわざ奉納する習わしがある。

また、新造船の船降しにはこのこんぴら様のある前浜沖を数回旋回し航海の安全と豊漁を祈願する。

昭和五十六年六月 神津島村”


 とある。

  村史によれば、
 3月10日、6月10日、10月10日が祭日と定められている。
 文化10年(1813)、5月建立と伝えられ、世話人に、古川市之助氏・石田五郎兵ヱ家・石田半四郎家・石田五郎ヱ門家・宮川仙吉家・清水八郎ヱ家等で管理が行われている。とあります。


 そもそもの、「こんぴら様」とは、漢字で表すと、「金比羅様」「金毘羅様」と現し、
 香川県に鎮座する「金刀比羅宮」という神社の流れをくむものであると推測されます。
 漁業関係者からの信仰が強いということで、信仰の対象も共通しています。

 本土から海を隔てた離島、神津島で、遠く四国は香川県の「こんぴら」と結びつく事に驚きを覚えませんか?



神津島の社会福祉協議会が発行している、
「神津島のお年寄りの作文集 第二十集」にこんぴら様の事が書かれているので紹介します.
つばきやの石田正一さんの記述です。

神津島に金毘羅神社が祀られたいきさつ(経緯)と記録

昭和九年十二月十日生(七十九歳)
石田 正一 (つばきや)


 本島に祀られている金毘羅神社は、いつ頃どの様ないきさつ(経緯)で何方がお祀りされたのか、その記録は残されていないのが実情であります。

 本村の史実を研究された、故山下彦一郎先生や、「神津島の神々」と題して執筆された、故松本一氏の文献の中でもその記録が見当たらないようであります。

 私が小学生の頃、(七十年以上前)祖母から何回も聞き伝えられていたので、金毘羅神社に対しては関心があり、何とか調べることが出来ないものかと考えてはいましたが、前述したお二人の史実の中にも祀られた年代等については記されていないようですし、況して私のような浅学非才な者に調べる術も無いのが実情でした。


 
 然し私が祖母からの聞き伝えと言うのは次の様なことでした。

 何時の頃だか知らない。
「昔なあー金毘羅様は漁師が七軒で祀ったらしくて、其の七軒の中に当家も含まれてーるだあ」との伝えでした。
 
 其の七軒でお祀りした理由はと言いますと、七軒のどこかで漁船を持っていて(櫓船でしょう)、その水夫(かこ)七人で漁をしていた、という事でした。

 ある日の事、鰹漁かとび漁に出たのでは、と考えられます。操業中突風に遭遇して港に戻ることが出来なくなり時化の中何日も漂流し、船方全員が生きて妻子の待つ我が家に戻ることは出来ない状況だったとの言い伝えでした。

 船方は悲愴な思いで流れたものでしょう。

 祖母からの聞き伝えによると、時化の中、流れながら漁師が崇める金毘羅大権現様に救いを求めようと、、祈りながら(七軒家族全員の意味)『救ってくだされば、生きて家族のもとに生還させてくだされば、金毘羅大権現様へ七人揃ってお礼参りにあがります。大権現様お助けて下さい頼みます』と祈りながら流れているうち、本土の何処かにたどり着いたことを聞き伝えられました。

 当時は連絡の出来ない時代ですから島では全員が死亡した事と考えていたのでしょう。

 七軒の家族の悲しみは悲愴至極であったと思います。それが何日か、あるいは何十日後、島に戻って来た訳だから其の時の喜びも察するにあまりあることだったと思います。その様な状況の下で救われた七人が、金毘羅神社の総社といわれる四国の讃岐までお礼参りに上がり金毘羅大権現様のご神体をお受けしてお祀りした神社が、今日、神津島に祀られている金毘羅様だと祖母は話してくれました。あれから七十年以上、往時が偲ばれます。

 私が小学生の頃といいましても十歳に成っていなかったと思います。其の七軒はどことどこの家かを聞いてはいたものの、当家もその中の一軒であると記憶しているのみで、他は聞き流していた状態でした。時は流れ、祖母も私が十七歳の時、七十五歳で世を去り、金毘羅様のことも忘れていた頃でした。たしか二十歳を迎えた正月四日だったと思います。

 金毘羅様の寄り合いがあるので『?平』宅 に顔を出すようにとの連絡を受けて、初めて金毘羅神社の世話人の一人として会合に出席したのが初回の寄り合いだったと記憶しております。其の時寄り合いに出席された人が、

会合を開いた『?平』宅のおじいさん、
『五郎兵ヱ』のおじいさん、
『源四』のお父さん(梅田源四郎)、
『五郎右衛門』の父(石田昌一郎)、
『清水八郎ヱ門』の母、
と私『石田半四郎』、この6軒で寄り合った記憶が最初です。

七軒の中には、梅田新八宅も含まれているのだと聞いてはおりましたが、新八宅からは何方も出席されなかった記憶が残っています。

 昭和三十年代の初めでした。それから毎年、世話人の寄り合いを年に一度、六十年近く続けてきた訳ですが、このところ何年か途絶えております。しかし時代の変遷で致し方ないと考えられます。

 前記致しましたように、昔は正月四日になると年配者宅で会合を開き、一年の会計報告を行いながら食事会をしたものです。当時はほとんどの船からお灯明料の献納(寄付)があり、金毘羅様の維持費に当てられていた為、世話人の代表となる方は会計報告を必ず行うのが慣わしでした、持ち回りで世話人になられた方は、神社の境内を掃き、神棚を掃除し榊はいつも枯らさないように、大変なご苦労をされてきました。昔ほどではありませんが現在でも其のことは引き継がれております。金毘羅様は、神仏習合の神社で榊も供えるが焼香もする神社です。

 世は移り歴史も薄れ、漁師の崇拝する対象の神様など心に止める漁業者の方々も数少ない時代に変わってしまったことは否めません。




 さて、それでは何時頃の時代に金毘羅様をお祀りすることになったのだろうか、私は其の点に大変関心を持っておりましたことは冒頭に申し上げましたが、平成十二年七月神津島に未曾有の大地震が襲いました、其のことは村民誰もが忘れる事が出来ない災害の記憶であろうと思います。

 私はある日のこと、自分では行くともなく自然と金毘羅様へ足が向いていました。

 今、其の時のことを振り返ると不思議でなりません。一応昔の様な世話人という事ではありませんでしたが、金毘羅様の本殿を開ける鍵を持っていたので本殿のガラス戸を開けてみたくなり、ガラス戸を開き、内宮の扉までも開いて見たい気持ちが起き、開けることにしました。気持ちの中ではもしかしてこのような事までして何か祟りでも、と思いながらも普段崇拝をし、一生懸命崇め尽くしているので罰はないでしょう。もし罰をあてる様な神様であれば正しい(神)とは思えないなど、考えながら恐る恐る扉を開け吃驚してしまいました。

 何十年も見たことの無い金毘羅様の御神体が引っ繰り返っているではありませんか、私は自然に合掌しながら、『起きて下さい、立って下さい』と思いながら安置させたら、自然と目を閉じ、再度合掌してしまいました。金毘羅大権現様が私を呼んでいたのでしょうか、私の気持ちを金毘羅様に向かせたのも扉を開けさせたのも自分ながら不思議で、本当に不思議に思えてなりません。

 以来、天気のよい日は金毘羅様に行き建物や本殿のガラス戸等に、水掛けをして周りを洗い流し、内宮の扉も開いて合掌しております。其の時、というか大地震の折、初めて金毘羅様の御神体を見た訳ですが、何か大きな動物らしき四本の足で立っている、其の背中にまたがった威圧感を感じる御神体でした。

 そこで、冒頭に記しましたようにお祀りされた時期は何時頃であるのか、其のことも判明されました。・・・と言いますのは御神体が安置されている内宮の祠の中に棟札が四枚重ね、収めて有るのに気付きました。字も薄れていましたが手に取ってみると、文化七年(千八百十年)に建立されていることが記されて有りました。今年は二千十四年ですから、二百四年前に祀られた事になります。

 祖母から聞き伝えられていた家庭の名前(世話人)が、棟札に記してあり読み取ることが出来ました。やはり七軒だったのです。

 その後天保三年四月(千八百三十二年)二十二年後には二回目の建て替えがされております。当時ですから屋根等、杉皮か、藁葺きで朽ちるのも早いため建替えも早く行われたことと思います。更に安政四年(千八百五十七年)には三回目の建替えがされているのですが、その後は明治六年十二月、四回目の改築が行われたことも判明されました。然し、その後現在に至るまで約百三十五年間の記録が残されておりません。その間には何回かの改築がされたことと思われますが、その間は不明です。

 其の為、老朽化していた社であり平成元年二月、漁協や村役場等からの助成をいただき、鈴木工務店により現在の社堂に建替えられ現在に至っております。



 私は前記で述べた通り、昔から当家が係わりをもつ家庭であることを心の中に秘めて生活してきているため、一度は本宮である四国、讃岐(香川県)の金毘羅様に御参りに行きたい、と思い続けていたため家内と二人でお参りに行って来たのですが、また一つ疑問に思っていたことが判明しました。 

 ・・・と言うのは『御神体が動物らしきものの背中にまたがって』と記しましたが、それは象の背中にまたがっている御神体であることが解りました。

 その理由ですが讃岐の金毘羅大権現様が祀られ安置されている場所(山)が『象頭山』という象の形をしている山に祀られている為、神津島の金毘羅様の御神体も象の背中に乗っていることが解かり納得した次第です。
 




 全ての物事がそうであると思いますが、そのことに関心を持ち続けていると、其のことの疑問の何かが少しずつでも解かってくるものであるとつくづく痛感いたしました。

後世を生きて来られる人達の為にも昔から聞き伝えられた経緯を残しておきたいと思います。

平成二十六年三月十五日
調査記録 石田  正一

(本人原稿)
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拝殿


本殿


拝殿の隣にある祠


本殿と拝殿を結ぶ階段横にある祭壇?