天空の廃道「砂糠山の養蚕場跡」その7 〜歴史を知る〜 
 導入>その7(完結)


ふと、気になった衝動から探検を始めたわけであるが、
すごい発見は嬉しく思うが、大きな疑問が残ってしまった。

 なぜ、あんなところに道が?

 いったい何をしていたのか?

 気になってしまう。

 

 この鉄塔。
 

 この道。
 

 これは一体全体なんだろうか・・・。




 ではでは、疑問解決のために調査開始!


 まずは、聞き込み調査!

調査その1 母に聞いてみる。

そしたら、すぐに。

 <あぁー、あそこは昔、蚕をやってたぁっつぅでー


 


 早速、有力情報!
なんと蚕を飼育していたとのこと。
そもそも昔は、だいたいの家庭で蚕を飼育し生糸を作っていたらしい。


 <だけん、どんな感じでそこに造られたかは知らないやぁー


 しかし、詳細はわからないとのこと。


 ここで、この本の登場。

調査その2 「神津島村史」を調べる

 「神津島村史」
 

 ペラペラ・・・

 おっ!

 第3章 第6節 養蚕業 p167

 いつのころから判らないがかなり古くから行われていた。本島には野生の桑の木が多く、かなり大木になっているものもあり、葉肉が厚く養蚕には良質の飼料であるといわれていた。

 村内にも機織り機も普及していてまゆを紡いで布地を織り、「地織り」と称して着物にする者もあり、今でもそれが残っている。

 養蚕業の最盛期には野生の桑のみででは足りず畑に苗木を育成して増産に励みマユの選別に熟練した娘たちが集団で本土の養蚕業に出向き指導した時代もあった。
 
 昭和十三年ごろは約二二〇貫の数量を上げ一三〇〇円くらいの収入があったことことが、「東京府市町村概観」に記されている。
 
 特に蚕室は設けず、住宅の畳を上げて部屋を臨時の蚕室にして操業したので、温度調節等には苦労したようであるった。

 桑の質は非常に良いことと、孤立した島だけに桑及び蚕の病菌がなかったため、種マユに適していたので、昭和時代に入ってからも盛んに続けられたが絹の需要が減少し、昭和初期には絶滅してしまった。


 あれ?

 あれれ?
  
 有力手がかりなし・・・。

 あちゃー。すこし行き詰りです。



 
 ・・・休憩。
 温泉にでもいこう。
 
 ふぅー
 と、温泉に行って、


 レストランでごはんを食べていると、そこには母の知人が居た。


 おっ!
 すかさず、砂糠山のことを聞いてみる。


 調査その3 母の知人に尋ねる。


 「あのー、砂糠山で養蚕をやってたとに対して何か知ってませんかー??」

 知人「あー、そういえば蚕やってたなぁー。よく知らないけん、かいも(屋号)の婆がそこで働いてたしかい、かいもの婆に聞いてみたらわかるじゃないなぁー」


 !?

 なんと、かいものばぁさんがそこで働いてたという情報をGET!
ちなみに、「かいも」とは屋号であり、家の名前です。

 というか、かいもの婆さんは親戚ではないか!


 よし! 
 次は調査その4 かいもの婆さんに聞いてみる。だ!


 ・・・しかしながら、時間がなく、今回は1回本土に戻ることに。 

 

 

2013年12月8日 下田船 あぜりあ丸にて神津島より撤退。。。






 ・・・かいもの婆に話しを聞きにいかなければと、もやもやしながら、時は流れ、






2014年1月12日 神津島 再上陸!
 


 12日の日中は大学の先輩達と遊びまわってー
 

 


 12日の夜、 ついに、かいもの婆の話しを聞けることに。


 調査その4 かいもの婆さんに聞いてみる!!



 自分自身で話しを聞かせてと行くことなんて初めてだから少し緊張。

 夜、家にお邪魔して、早速、本題を切り出す。


 「砂糠山の蚕について教えてくださいな!」


 「あー・・・」


 と、かいもの婆さんは口を開き、色々と教えてくれた。
 
 話しに聞き入りながらも、
 疑問に思ったことは質問し謎を解明していった。

 

 途中から、おじさんも合流し、

 養蚕だけではなく、話しがそれ、
 お地蔵さんの話しや、
 地名の話し、
 昔の島の文化の話、
 昔の島の産業の話、
 かいもの婆の昔の活動の話などなど、

 楽しい話しがずっと続いた。

 酒も飲まず、カフェオレとみかんで楽しい時間が過ぎ、
 19時頃に行ったにもかかわらず、気づけば22時を回ってしまっていた。

 聞きたかった養蚕の話し以外にもたくさん聞け、
 婆さんの話しを聞きに行くきっかけを作ってくれた「廃道」に感謝。


 調査結果
 
  養蚕場のことをまとめると。

【時期】
かいもの婆さん自身がそこに入って作業を始めたのが昭和47、48年あたり。
道やら畑を整備するのに3、4年かかった。
なので昭和43年から昭和45年くらいから工事は始まったのかな

【理由】
当時の国の方針(減反政策のような)で進めていた農業改革の一環で、
それにのっとった村が養蚕事業を始めた。

【当時の雰囲気】
おばあさんらはそこ(砂糠山、長根)で行うのは大反対していて、
現在の多目的広場あたり(多幸湾ファミリーキャンプ場付近)ならやる!
と、言ったらしいのだか結局、砂糠山で話を進められてしまった。

【廃墟になった時期、原因】

昭和55年から昭和58年あたりにはすでに放棄した。(行かなくなった)

放棄した理由は、
そこではそもそも桑の葉が足りず、蚕を育てられず死なせてしまった。
村の方から桑の葉を持ってきたりしたがやはりそれ自体馬鹿らしい、
お金ももらえないし、採算に合わないから辞めた。


【その他の話】

蚕も2回ほどやったが、結局だめで死んじゃった。
その時は泊まり込みでやっていた。

建物の小さい2棟が宿舎。
長い3棟が蚕を飼っていたところ。

ガスボンベとかも、多幸湾のほうから担いで持って行った。

水場は近くにあった。

ここに行く道は、天上山の櫛が峰から山道で行けたが、2000年の地震で崩壊
し道がなくなった。

同じくここから、長根に降りれる山道があったが2000年の地震で崩壊して道
がなくなった。


多幸湾からの海岸線の道は途中までは出来たけど、最後まではできなかった。
その道は今は天上山の崩壊で埋もれてる。


息子(当時中一)が生活で必要なガスボンベを担いで、磯を渡り養蚕場まで持っていった。

夏は勝手にここでキャンプをして遊んだ。

磯から山への索道意外にも、磯の途中まであった道からの水平方向の索道があった。

長根丸という船もあった。


【違う人の話(2013年12月)参考】
長根丸という船があり、釜ヶ下まで船で物資を運び、そこから索道で物資を揚げた。
車とかはヘリコプターで持っていったんじゃないの?(不明確)
村から砂糠山に繋がる道路はない。



【頂いた写真】
かいもの婆さんが持っていた写真を頂きました。
































【ネット上にあった航空写真】

すごいものがあった!!!

地理院地図
(電子国土WEB) 1974〜1978年 より
http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/#zoom=5&lat=35.99989&lon=138.75&layers=BTTT






調査報告以上



昭和55年頃に放棄され、2014年現在で約30年経過。
今日も砂糠山の廃道は静かに時を過ごしている。

廃道となって約30年。
時を越えて2013年に中村を動かす原動力となり、
あまり深く話したことのなかったかいもの婆との繋がりを深めてくれた。

廃道、ありがとう!

 天空の廃道「砂糠山の養蚕場跡」 完結!
 
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